少年王者舘 「夢+夜〜ゆめたすよる〜」幻想的な世界感のこの作品について、天野天街氏にお話を伺った[公演情報]
夏の暑さに浮かされて見る白昼夢のような、切なさとユーモアと懐かしさが入り交じった、あまりにも不条理で幻想的な世界。もはや小劇場ファンの間では夏の風物詩となっている、名古屋の劇団「少年王者舘」本公演の季節が、今年もやってまいりました。とはいえ昨年は『アジサイ光線』再々演が、大阪で上演されたのみだったので、物足りなく思った方もさぞ多かったことでしょう。しかしその分今年は、主宰・天野天街の3年ぶりの新作で、名古屋・京都・東京の3都市を巡演! しかも京都での本公演は、劇団創立27年目にして初めてのことだそうです。そこで天野天街に、題名通り「夢」がテーマとなるという新作の構想について、いろいろとうかがって参りました。

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──このタイトルって、一瞬『夢十夜(ゆめじゅうや)』と読みそうになりますけど、夏目漱石の同名短編小説とは何か関係あるんですか?

  あの字面から発想はしたけど、単純に「十」が「+(プラス)」に見えたという、遊戯でしかないですね。あれに出てくる夢の話や、漱石の無意識がどうっていうことは、今やろうとしている芝居とは全く関係ない。ただ書いてるうちにネタに困ってきたら、何か引っ張ってくるかもしれないけど(笑)。

──「これを次の芝居のタイトルにしよう」と思った決め手みたいなのは、何かあったんでしょうか?

“夢+夜”って見えた瞬間に、まず「夢と夜を足すってどういうことだろう?」と。そこからいろいろこねくり回すと、何か変なモノがピョッと出てきそうだなと思ったんです。それと「夢」というのはものすごく個人的な物だけど、「夜」は完全な共有物……地球とか太陽とか月とか、すべての関係でできている物。そういう対照的な要素を、同じフィールドに持ち込んだらどうなるか? というのもありました。

──ただの言葉遊びから始まったものが、どんどん広がりを持ち始めたと。

王者舘の芝居のタイトルは、割とそんな感じで決めてますね。フッと何かの言葉が出てきた拍子に、そこからまた別のモノが浮かんできたり、何かとつながりそうだなという感触が発生すれば。たとえば『それいゆ』(98年)だと、太陽(soleil)と原爆というつながりから、話を作っていきましたし。

──その2つの言葉から連想される物事やシーンを、とにかくガンガンつなげていくって感じの作品でしたもんね。

  それで今回のタイトルの話に戻すと、これまで自分の作品の中では、なるたけ「夢」って言葉を使わないようにしていたんですよ。夢って言葉を使っちゃうのはダサイというのもあるし、あと芝居の中で「夢だ」と言い切ってしまうと、安易に流されてしまいそうだなあという恐れがあって。

──確かに王者舘の世界は全体的に夢っぽいから、「これは夢です」と言い切ってしまうと、身も蓋もなくなっちゃう気がしますね。

  うん、それで終わってしまう。『くだんの件』(95年)という作品で「夢」って言葉を執拗に使ってからは、割と「夢」が芝居中に出てくるようにはなったけど、それでも極力避けてました。なのに最初っから、タイトルに「夢」なんて付けてしまったら、自分自身がどうなっちゃうのか? という、そういう興味もありますね。

──あえて「夢」って言葉で自分を縛り付けちゃおう、と。

  実際夢というか「眠る」という人間の特質については、昔からズーッと興味を持ち続けていること。だからこの機会に、無理をして失敗することになってもいいから、一度このテーマを全面に出してやっとくべきかなとも思ったんです。

──夢や睡眠のどの辺りに、一番興味を惹かれるのでしょうか?

  詩的に言うと、眠るってことは「軽い死」だから。アタシという者の意識から一時離れて、もう一個の意識に移行してるという状態。それは軽い死であり、アタシがこの世からいなくなることの予行演習とも取れるわけ。そうやって寝ている時の意識と、覚めた時の意識がある……と、俺らは思ってるでしょ? でもよくよく考えたら、自分の中ではそれが結構揺らいでいたりすることがある。このどっちがどっちだかわかんないような状態っていうのは、すごく面白いなと思います。

──ただ「夢」というテーマは、古今東西の数多くの表現者がすでにモチーフにしてきたものですが、天野さんとしてはどういう切り口で描いていこうと思ってますか?

  夢的な状態をいろいろ組み合わせて、入れ子のように見せていこうとは思ってますが、夢や睡眠って何? ということを解明しようとは、全然考えてないんです。俺が観せたいのは「夢を見ている状態とは、一体どういう状態か?」ということ。夢を見てる時って、みんな「夢を見てる」という意識はないわけでしょ? だから目が覚めてから夢のことを語ることはできても、「今現在夢を見ているその状態」を他の人に語るということはできない。

──漱石じゃないけど「こんな夢を見た」という、過去形の語り方でしか伝えられない。

  それだけは、一番したくないこと。本当に人が知りたいと思ってるのは、すでに誰かが見た夢の話ではなく、まさに人が夢を見ているその現場のはず。つまり実際にその現場にいなければ、本当の意味で「夢を語る」ということにはならないと思うんです。なので今回は、演劇で“夢の現場”にどこまで近づけられるか? ってことがやりたい。それこそとことんまで、いろんな手法を使ってね。そもそもどうしても行き着けない所や、不可能なことにギリギリまで近づきたいというのが、俺が芝居を作る上での一番の初動なわけだから。それで、こういう夢の現場の状態を「覚(かく)」の意識において考えてしまうと、きっと気が狂ってしまうでしょう……という話がしたい。

──相当危険な世界ですね。

  ただ夢というのは極私的な題材だから、別の意味で危険というか、自己満足に陥りやすいんですよ。誰もが落ちてしまいそうな罠がいっぱい隠されていて、それをどう回避するかということに、力点がある感じがします。油断してると「あいつ“俺は落ちない”と言いながら、結局落ちやがった」ってなりかねない(笑)。

──具体的にどういう見せ方にしようとか、そういうのは考えてますか?

  最終輪郭地帯での話というか……人間が生まれる前か、生きてる状態か、死んだ後かはわからないけれど、この先にはもう“輪郭”がないという、そんな場所での話を考えてます。もはや場所かどうかもわからないけれど。それと主観と客観、つまり「夢を見る/見られる」の関係を、観客と役者の関係性に当てはめてみるとどうなるか? というのも、ちょっとだけ見せてみようかなとも思ってます。

──というと?

たとえば夢の話を芝居にした時に、夢を見る主観となる人物が、役者として舞台の上にいるっていうのは、俺はおかしいと思うわけ。夢主はそこには存在しないか、登場しても台詞とかだけで、視界に入ってくることはないはず。本当なら、Point Of View(註:映画撮影用語。『クローバーフィールド/HAKAISHA』などのように、登場人物の視線とカメラの視線を一致させたカメラワークを指す)みたいな見え方になるはずなんですよ。ただこの見せ方を演劇でやろうとすると、かなり無理がある。カメラと違って、客席は動かないから(笑)。だから全編、この見せ方で通すってことはないだろうけど。

──やれたらすごい! とは思いますけどね(笑)。

  そういう演劇の見せ方に「夢」を荷担させると、どういうモノがにじみ出てくるかという、そんな作業になるでしょうね。もともと演劇という表現自体が、観測不可能なことを観測させるような状態なわけですから。そんな背反したモノを、どうアウフヘーベンするかですよ。2つのモノを寄り添わせて、1つのモノを見せるっていう。

──その1つのモノが、どんなモノになるかという、予想とか希望みたいなものはありますか。

  俺じゃなくて誰かが言ってたんだけど、水の底にある石ってものすごくキレイに見えるけど、地上に出して乾かした途端、あんなにキレイだった物がすごく色あせて見えてしまうって。その感じは、夢と全く一緒だと思う。

──つまり水底の石のキレイさを、地上でも保てるようにというか……夢を見ている状態の楽しさや不思議さを、極力そのままの状態で舞台上に提示するのが、今回の究極の目標だということで?

  うん。その感触が、瞬間でも見えたらいいなと思います。

(取材・文:吉永美和子)

※京都公演の期間中に、天野天街のアートワークを展示する「天野天街萬華鏡展」が、大阪で開催されます。詳細は展覧会ブログにて。http://amanomangekyo.seesaa.net/


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