GORCH BROTHERS PRESENTS 『飛龍伝』。主演・玉置玲央と演出・中屋敷法仁へインタビュー![インタビュー]

2013年1月23日(水)より東京・本多劇場にて公演される、作・つかこうへいの「飛龍伝」。主演(山崎一平 役)の玉置玲央と、演出・中屋敷法仁へインタビュー!



主演・玉置玲央インタビュー

演出家、そして共演者たちとの斬り合い必至
きっと『飛龍伝』は、誰もが自分の首を賭けた創作になる

――まず、つか作品との接点について、聞いていきたいと思うのですが、玉置さんが最初につか作品に接したのはいつ、どういう形でですか。
 つかさんの作品は、学生時代に戯曲を何本か読んでいたんですが、03年に筧利夫さんと広末涼子さんのダブル主演で上演された『飛龍伝2003』、あのときに裏方のスタッフとして現場についていたんです。そのときはまだ、右も左もわからない頃だったので、現場でつかさんとすれ違ったり「こういうお芝居もあるんだなあ」と思った感じでしたけど(笑)。ただこうやって自分なりに経験を積んでいく中で、つかさんを含め、先人が今に遺している作品は、芝居をやる人間ならどこかで必ず通る道なのかな、という思いが強くなってきました。

――昨年、一心寺シアター倶楽のつかこうへい追悼公演で上演された『飛龍伝』に、今回と同じ山崎一平役で出演されていますよね。実際に出演してみて、感じたことも多かったのでは。
 あのときに初めてつかさんが書いた作品に出演させていただいたんですが、つか作品には相当、エネルギーや覚悟というか……、生命力が必要なんだなという印象がありますね。やったら絶対面白いとは思うんですけど、一番血気盛んで体力のある年頃の俳優でも、ちょっと尻込みするところがある(笑)。

――(笑)。ただ、尻込みするような作品にもかかわらず、昨年、そして13年にも『飛龍伝』に出演することになったわけですよね。そこになにか覚悟というか、決意があったということなんでしょうか。
 タイミングが合ったんでしょうね。役者として自分が好きでやってきたものだけでなく、もっとなんでも食べなきゃなあ、と思っていた時期なんですよ。そんなときに前回のオファーをいただいて、「これは今、やらないとまずいんじゃないか、やらないと後悔するだろうな」と思ったんです。さっきも言った通り、先人が遺してくれた作品をやることを、俳優としての命題と感じるところもあったし、中でもつかさんが書いた作品は、やれる機会があったら逃せないなと。そこが一番大きかったと思います。『飛龍伝』という作品自体がどうこうというよりも、とにかく一度、つかさんが書いた作品に正面からぶち当たってみたかった。

――では、実際に作品に参加してみて、ぶち当たれたような感触はありましたか。
 僕としてはそのつもりでいます。ただ、それがつかさんの世界を体現することとイコールかといえば、そうではないじゃないですか。だから今回は、もっと作品に寄り添えるところまでいけたらいいかなと思っています。それができたら役者として「やってやったぜ!」という感じが味わえるんじゃないかな。

――作品に寄り添うというと、たとえば作品全体を俯瞰でとらえるみたいなこと?
 いや、つかさんが書いた作品は、実際にやってみたらそれどころじゃなくなる(笑)。むしろ楽しんだり苦しんだり、そこに生きる人間になって終われたほうがいいと思うんですよ。つかさんの世界観に対して人間としてどう向き合うかを、身体で表現するというか。とにかく作品自体が持っているエネルギーがとてつもないから、俯瞰で理解して役になるという感じではないんですよね。

――役者としてはもちろん、人間としてのポテンシャルが問われる感じですね。
 だから、どれだけ自分という人間を役に乗せられるか、じゃないですか。つかさんの本にはキャラクターの設定も物語もあるんですけど、つかさん自身はそれを超えて、あるいはもっと核の部分で、俳優の人間性をどれだけキャラクターに載せられるか、ずっと追求されてきたんじゃないかと感じます。僕はつか作品にはまだ、前回の『飛龍伝』に参加しただけですけど、そのときも本自体の力が、自分にもっと人間性を出すように求めてくる感じがあったし、やっているとどうしてもそうなっていくんですよ。

――一種独特な力を内包するつか作品ですけど、それを今回、中屋敷さんが演出することについては、どうお感じになりますか。
 たぶん中屋敷は、つかさんの芝居を意図的に避けて通ってきていると思うんですよ。だから実際にやってみたらどうなるのかな? と思っています。中屋敷が自分の意志では今まで選び取ってこなかったつか作品、でも、自分にはとても思い入れのある作品ということで、なんだか変な形で互いの歯車が噛み合っているような気もするし、結果として、なにか気持ち悪いことになったら面白いんじゃないかな(笑)。

――中屋敷さんはこれまでにもさまざまなモチーフやコラボレーションを展開されてきていますが、それらともちょっと違ったものになりそうですね。
 これまで劇団作品で取り上げたシェイクスピアやゴーゴリ、そしてキャラメルボックスさんとコラボした『ナツヤスミ語辞典』にしても、やっているときの中屋敷に、ある種の勝算というか、完成形の青写真みたいなものが見えていたんです。けど今回の『飛龍伝』についてはまったくの未知数です。あいつがなにをしてくるのか、なにを作りたいのかもわからない。それくらい僕の中で、つかさんと中屋敷の組み合わせが意外なのか、あるいは中屋敷がそういうものをまだ醸し出していないだけなのか……。ただ、一つ言えるのは、こういう感覚はつかさんの本じゃなかったら、感じなかっただろうなということで。

――そう感じるくらい、これまでにはなかった異色の取り合わせです。
 だから具体的に「こういう演出をしてくれたらいいのに」みたいなことも、まったく考えてないです。この作品を通じて、中屋敷という人間と玉置という人間がどんなふうに付き合えるだろう? ということを、ただただ楽しみにしています。

――劇団とプロデュース公演とでは、中屋敷さんとの関係性も大きく異なる?
 劇団とプロデュース公演を問わず、だんだん僕と中屋敷の関係が、主宰と劇団員という関係から、イチ演出家とイチ俳優に変化してきていることは感じています。それが観る人にとって良いのか悪いのかは、ちょっと自分にはわからないですけどね。ただそれは僕にとって、すごく心地のいい関係性なんです。そこをもっと突き詰められたら面白いんじゃないかと思うし、この『飛龍伝』でそれができたら、また、中屋敷との新しい関係性が見えてくるんじゃないかと思っています。

――中屋敷さんの関係性の変化について、もうちょっと聞いてもいいですか。
 ちょっと前までは、柿喰う客という同じ劇団にいる以上、僕と中屋敷が共倒れになるかもしれないようなことは、絶対ナシにしようと思っていたんです。たとえば僕は俳優としての技術を培って、それを具体的にどう使って劇団に貢献するかを考えていたし、逆に中屋敷は外部の仕事で得た知識や感触を、劇団に持って帰って来てくれて。それは劇団員、劇団主宰としては当然のことだし、劇団を発展させていくための一つの方法論だったと思うんです。今現在、そういう部分がまったくなくなったわけでもないし、否定するわけでもないんですが、最近は「もう共倒れになってもいいじゃん」と思うようになっていて(笑)。甘えや手抜きにつながっていたわけではないんだけど、助け合うという立場にいることで、どこかで互いが傷つかないようにしていた部分があると思うんですよ。今はそこから、互いに傷つくかもしれないけど……、もう一歩、プロフェッショナルな間柄に近づいてきたというか。

――それは表現者として、ステップを昇ったということなんでしょうか。劇団の発展というよりも、表現そのものに向ける思いが強まったというか……。
 どうでしょうね。そこはなんとも言えないですけど、二人の間に無防備というか、剥き出しな感じは産まれていますね。中屋敷も作品を作る上で「別に、玲央くんがポシャっても知らんわ」と思ってるだろうし(笑)、僕自身もそういう感じでやっている。だから劇団ありき、という部分を互いに度外視するようになったんだと思います。そこから脱却しようとしたわけでもなく、自然とそうなっただけなんですけど、僕に関して言えば去年、外部出演などで、劇団以外の世界をいっぱい見させていただいたことが大きかった。

――その変化がこの『飛龍伝』になにをもたらすのか。とても興味深いです。
 中屋敷法仁の創作意欲をかき立てるつもりもあまりないんです。イチ俳優として、イチ演出家を圧倒してやりたいだけで。中屋敷のほうも絶対にそうやってくるはずなので、「手加減はしないぞ!」というか。もう、どっちが首を取られるかという勝負、そんな創作の場になると思うし、そうしていきたい。

――そうした熱量は、まさにつか作品にふさわしいというか、必要なものですよね。
 絶対、必要になってくると思うんですよ。それは中屋敷に限らず、他の共演者との間でもそうだと思いますね。(黒木)華ちんもそうだし……、彼女の首も取りにいくし、向こうも取りにきてくれると思う。まだ稽古が始まっていないので、役者として刃を交えてはいないですけど、お会いしたときに「この人はあっさりと鞘から刀を抜く人だろうな」という印象がありましたから。最初はまず木刀での手合わせから、という感じがないんですよね。最初から真剣勝負。それってこの作品ではすごく大事なことだと思う。彼女もわけもわからず刀を抜くんじゃなくて、意図を持った上で、前のめりに抜いてくると思う。ただ僕のほうが歳上だし、先輩でもあるので、簡単に斬られるわけにはいかない(笑)。そういった勝負の構図は、劇中で山崎一平が神林美智子と対峙する姿に、重なる部分があるかもしれませんね。

――さらに黒木さんの他にも、オーディションで多数のキャストが参加する作品になるとも聞いています。
 そうなんですよ。だから初めて共演する方がたくさんいるでしょうし、そこからどんな風景が見えてくるのかも楽しみなんです。その中で僕自身は、一人の人間として演出家や共演者との真剣勝負を戦い抜きたいと思っています。『飛龍伝』をご覧になる方々には是非、そういった部分も楽しみにしていてほしいですね。


演出・中屋敷法仁インタビュー

今、つか作品に挑むこと、
そして今の若者が、過去の若者たちを演じることに込めた思い

――まず、なぜ今つか作品、そして『飛龍伝』なのか、といったあたりから、お話をうかがえればと思います。
 これはいろんなところでしゃべっていることですけど、僕はつかさんの作品だけは演出しないだろうと思っていたんです。僕はシェイクスピアも能も歌舞伎もやりたいんですけど、なんとなく、つかさんのものだけはやらない気がしていた。 最近、その理由がわかったんです。たぶん、つか作品における演劇手法が完成しているからなんじゃないかって。

――それは、どういうことなんでしょうか?
 つかこうへいという男が、思うことをせりふにして俳優に伝え、俳優はそれを演技の中で口にする。その過程で俳優が忘れたせりふは、生きていなかったせりふとしてカットされていく。だから今、つか戯曲の中に生き残っているせりふは、生きているせりふだと思うんです。つかさんがしゃべった言葉が膨大にあって、それを俳優の身体を通して有効かどうかを検証した、本当に生き残ったせりふというか。それって作・演出家の「面白いものを作ろう」という計算だけでは生まれないものだと思うんですよね。そういう部分で人と人がかかわる、演劇の根幹的な喜びに通じている作品だから、僕の中で課題が見つからなかったんだと思うんですよ。つか作品に対してこれが足りないとか、こういうふうに僕のオリジナリティを加味して演出してみたい、というようなところがない。だから、これはもう演出のしようのない、完成された作品だなって(笑)。

――(笑)。完成しているものだから、自分があえてやらなくてもいいんじゃないかという感じですか。
 つかこうへいが口立てのもと、つかさんの劇団の人たちがやるというシステムは、最高というか、完成されていると思ってました。だから今、僕がやるにあたっては、通常の演劇の作り方ではダメだなというのはありますね。つかさんの作品って、戯曲の中でも今後、古典として残っていく作品だと思うんですよ。すでに演劇の歴史の中にある立ち位置を確立している作品というか、演劇史的にも、つか以前つか以後、みたいな語られ方をされますし。でも忘れてはいけないのは、『飛龍伝』が初めて書かれて、上演されたときには、つかさんの最新作だったということ。つまり、まだ作品として評価の定まらない存在だったわけじゃないですか。だから僕が今、演出するにあたっても、今までにこういう評価、解釈をされている作品であるということを一度切り離して、一つの新作戯曲と見たときに僕らがなにをどう感じるのか、そこを考えてやりたいですね。

――フラットな視点から『飛龍伝』という戯曲を見つめるということですか。その他に現時点でなにか、この作品に感じることはありますか。
 実際にこの作品を支持した観客たちのことですかね。僕はつかこうへいがすごかったということ以上に、当時の観客の熱狂がこの戯曲を今に生かしたんだと思うんですよ。だから作品を作るときはもちろん、自分が面白がれるか、面白がれないかみたいなところも重視しているんですけど、さらに自分の作品をどういう人が観てくださるのか、どういう部分に影響を与えるのか……、そういうことに、今は想像力を広げようとしていることもあって、そこについて考えてしまうというか。まあ、これは完全に僕が考えている演劇論なんですけど(笑)。

――表現者の自分の中だけでなく受け手である観客や、作品自体が生まれた時代についても、想像を広げていきたいという思いがあると。
 それはすごくありますね。みんな「今の時代はおかしい」と言いますけど、それを言うためには、今につながる過去のことを知らないといけない。目の前にある即物的なことがらには、誰でも反応できると思うんです。だけど僕はやはり思考する存在でいたいので、「目の前にあることの背景には、なにがあるのか?」というところまで、掘り下げて考えていきたい。『飛龍伝』は学生と機動隊の闘争の話ですけど、そこで起きる戦いは結果でしかないんです。なぜ戦わざるをえなかったのか、なぜそういう運命をたどらざるをえなかったのか。それは時代のせいなのかもしれないけど、時代のせいにするのなら、それはどんな時代だったのかを考えたい。『飛龍伝』は、そこにまで思いを馳せられる作品なんです。

――つか作品は極私的な感情を描く一方で、そうした感情を持った人々が、運命に飲み込まれていく姿が描かれます。
 つかさんの作品には、個人の力ではなにもできないという、圧倒的に哀しい結論がありますよね。どんなスーパースターでも時代の流れには勝てない。物語も勧善懲悪ではまったくないし、登場人物もその結末も善悪という二元論では語ることができない。だから観劇後に本当に複雑な気持ちになるというか……、きっとそれは本当の人間を描いているからなんでしょうね。だから観た人によって感想も変わってくる。だから「つかさんが言いたかったのはこういうことだ」と結論を提出するのではなく、まず演出家として、つかさんを疑うところから始めたい。つかさん自身も、ずっとフラットな気持ちでこの作品を書いていたわけではないと思うんですよ。きっと書きながら、稽古をしながら、心の中ではいろいろなブレがあったと思う。その揺らぎの振れ幅も時期によって違いがあったと思うし。だから、つか演劇を絶対的なものとして構築し、こう演出すべきだと決めつけるのではなく、ありのままのつか演劇を受け止めて、どう楽しむべきかを考えたい。たぶんこれは主人公に感情移入して、その運命を味わうだけの作品ではないと思うんです。それ以外の部分で、別のもっと大きな感情を体験できる芝居だと思う。この作品を通して、昔の若者と今の若者、昔の演劇と今の演劇、そこから大きく「時代とはなにか、演劇とはなにか?」ということを考えられるんじゃないかと思う。

――「昔の若者と今の若者、昔の演劇と今の演劇」というキーワードが浮上してきましたが、たとえば過去と現在の間をつなぐ連続性については、以前からなにか感じる部分はあったのですか。
 一番感じるようになったのは私事なんですけど、青山学院大学に入って……、当時青学って、モテる大学一位とされていたんですけど(笑)、そこに入って演劇をやろうと思ったら、演劇部がなかったんですよ。演劇研究会という形でサークルはあったんですけど、いわゆる部としてはなかった。あと青学並みの偏差値の都内の大学は、みんな学内に劇場を持っているんですね。でも青学には芝居小屋がなくて「なんで芝居小屋がないんですか」と先生方に聞いてみたんです。そうしたら昔、青学の全共闘を仕切る人に演劇部の人がいたとかで。その影響だけではないだろうけど演劇部もなくなったし、劇場ができることもなく……。昔のことだと思っていたようなことが、実はつながっていて、自分に影響を与えていたんですよね。

――1960年代の学生運動と、2000年代の青学の演劇事情がつながっていた。
 しかも、当時の青学全共闘のトップが、今も活躍されている作・演出家・俳優でいらっしゃる流山児祥さんだったという(笑)。

――大学の先輩後輩としてだけではなく、演劇界でもつながっていたんですね(笑)。
 そうなんです(笑)。だからまあ、昔のことが今の自分に影響しないわけないんですよね。学生運動なんて、たかだか数十年前の話だし、そこで活動していた人たちもまだ生きているわけだから。『飛龍伝』にも、いろいろな大学の名前が出てくるんですよ。同じ大学の学生でも昔と今では考えていることは全然違うでしょうけど、でも先輩がやったことって後輩にもなんらかの影響を及ぼすんです。今でこそ演劇は文化として認められていますけど、当時は反逆、反体制的な感覚があったというか、ほぼ革命家みたいなものですよね。だから流山児さんには「バリケードってどうやって作るんですか?」ってリアルに聞きたいんですよ(笑)。

――そういうリアルな話、しかも学生運動についての話を聞ける機会は、なかなかないだけに貴重ですね。
 ただ、早くしないと、そういう話も聞けなくなってしまうし、そういう話を聞かないでも別に平気、と思ってしまうことが僕は怖いんです。昔の子どもたちは、親の言うことが生きるための知恵だったから、親の言うことを聞いて、その真似をして生きてきたわけですよね。でも今の時代にはネットに情報があふれているし、親を初めとした人生の先輩に意見を聞かなくても幸せになれる気がする。でも先達の意見ってネットでチェックできるようなものとは違う、もっと得がたい生のものだと思うんです。だからもっと耳を傾けないといけないなって。みんながネットを初めとするメディアから情報を得て、親や先輩たちの話を聞こうとしないから、方言や料理の作り方といった、リアルに親から子へ受け継がれてきたものが、どんどん消えてしまっているんじゃないかとも思うし。

――ネットの利便性が、世代間の伝承によって継承されてきたものを消し去って、みんなが均質化していくというか。
 そういう昔の生の感覚、血の通った感覚というものは、人生の先輩たちの話もそうですけど、それこそ芸術作品の中に残っていると思っているんです。芸術作品は人の魂が形になったものであり、単なる時代の記録ではなくて当事者の生の声ですよね。遠い過去の時代の生の感覚に触れるには、もう芸術しかないんじゃないかと思う。だから今の若者で過去の若者たちの作品をやりたいんですよ。自分の世代には、身の回りや身の丈に合ったものにしか想像力が働いていない部分があると思うので、そこを芸術の力で広げていけたらいいなと。そして過去の若者たちが抱いたであろう生の感覚を想像し、演劇にしたい。

――この『飛龍伝』から感じる、過去の人たちの血の通った感覚。そして現代にリンクすると思う感覚について、具体的に教えていただけますか。
 今って、つかさんの作品みたいに、人に対して「バカ野郎」とか言わないですよね、女性に「ブス」とか。その代わりになにをやっているかというと、インターネットに悪口を書いたりしている(笑)。生の声に触れる機会が少ないから、他人の生の言葉を言われても、受け取り方が下手になっていると思うんですよね。「愛してる」と言われても、そこにあるものをうまく受け止められない。つかさんは口立てで稽古をしたことで有名ですけど、当時は台本にあるような言葉を普通に言っていたわけです。でも、今の俳優たちはこういう言葉を日常的に言ったことがあるのか、そしてお客さんは聞いたことがあるのかというと……。でも、われわれだって状況によっては、こういう言葉をリアルに言うんじゃないかと思うし、そうした言葉を発する心理は持っているんじゃないかとも思っていて。コミュニケーションの形に違いはあるけど、この戯曲と現代の間に、本質的につながる部分があることは信じられるというか。だからつか戯曲の演劇性は現代にもリンクすると思いますし、問題はそれをどうやって伝えるかなんですよね。

――中屋敷さんが言うところの、完成されたつか演出とは違う方法で、つか作品の演劇性を引き出さなくてはならない。
 だからいろんな疑問が生まれるんですよ。昔と今ではいい俳優の基準も、お客さんに届く俳優も違うと思うんですよね。それを踏まえてどうすれば、今の観客にこの演劇性を届けられるんだろうと。そのためには演技手法よりももっと深い部分、たとえば稽古場にいる人間たちはどうやってぶつかり合って、作品を作っていくべきなのか、ということについて考えたりします。

――つか演出とは違った形であっても、人間同士がぶつかり合いがないと作れない作品ということでしょうか。ただ、今は人間同士がぶつかりあうという感覚が希薄ですよね。みんな、ぶつかろうにもぶつかり方がわからなかったりする。
 僕自身にもわからないですから(笑)。昔は俳優さんと演出家が演技論を戦わせたり、俳優同士もケンカしていたという話を聞きますけど、今はぶつかりにくいですもんね。昔、寺山修司が唐十郎と殴り合いのケンカをしたと聞いて、僕も東京に来たらやろうと思っていたんですけど、実際にはやれないんですよ(笑)。やろうと思えばできるでしょうけど、やる前にもうインターネットとかメールとか、コミュニケーションを補填する手段がいろいろあるじゃないですか。だから、いざ会ってみると、殴り合いになるような行き違いの材料が一個もない。だからケンカできないのが哀しいのじゃなくて、本気でぶつからなくてもよくなっていること、それがどうなのかなって。僕は1984年生まれなんですけど、今回いっしょにやる俳優たちとは同い年くらいなんですね。だから僕も含めて、このメンバーがどういう時代の中で育ってきて、どのようなものを自分の中に育ててきているか、ということに対する理解力はあると思うんです。だから今の俳優と、つか戯曲をどういう手段を使えば、うまくリンクさせられるのか。さらに、つか戯曲を介して、俳優たちとお客さんをどのように劇場で出会わせることができるのか。それを試みるために稽古ではまず、みんながぶつかりやすい状態、雑念を取り払って、本当に生になれる状態にしたい。みんながいかにシンプルにいられるかが勝負だし、そういう環境を自分が作らないといけないんです。とはいえ演出家としては、こういう引き算が一番難しいんですよね。「今回はこういう演出だから、こういう舞台美術にします」というように、形を決めて提示すると、俳優は優秀だからそのルールをうまくこなすんです。でも今回はそういったルールを作るつもりはないので。

――それはなぜですか。
 ルールって、運動不足のマウスに与える回し車のようなもの。それで動いてもらっても、それは本来の動きではないですよね。だから、動かない俳優を動かすシステムではなく、自身で動かざるをえなくなるような、中からなにかが湧き出るようなやり方を考えていきたいなと。あとはこれは誤解を受けるかもしれませんが、この作品をやるからには本気で遊びたいと思っています。ワンアイディアでなにかを試してみたり、とりあえず踊ったりしてみたり、ということではなく、俳優がやりきった実感を得られる、そしてお客さんも演劇を観たと実感できるものにしたい。本当に『飛龍伝』という作品を遊び尽くすくらい、自分の中にあるものを使いきりたいし、この作品に没頭するためには、なにをすればいいのかをずっと考えています。

――これまで話をうかがっていると、中屋敷さんは世代や地域、さらには時代といった、人々を区切る仕切りのようなものを、想像力によって乗り越えようとしている印象を受けます。
 みんな、もうわかっていると思うんですけど、自分たちの世代だけのことを考えていても、幸せになることは不可能なんですよね。それは社会制度や、家族のあり方を考えてもそう。やっぱりわれわれは親から愛情をもらい、受け継ぐ中で幸せになっていくんです。同年代の人と恋に落ちたり、友達になったりもしますけど、同年代の人たちだけとコミュニケーションしていても、絶対に幸せにはなれない。われわれは先人の作った社会のシステムを受け継いで今を生きているし、いずれは下の世代にそれを渡して、彼らがどう世の中を動かすかに期待しないといけないわけで。だから『15の夜』とか言っている場合じゃないんですよ(笑)。違う世代ともコミュニケーションが取れる素養や想像力が、絶対必要なんです。そうじゃないと世代間でどんどん孤立してしまう。

――その試みの一つとして、今回の『飛龍伝』の演出ということがあると。
 結局、自分が実感を持って知っていることって、リアルタイムに体験したことしかないないんです。だけど芸術には実際に体験したことでなくても、リアルに追体験できる力がある。それは演劇もそうだと思う。ただ、この『飛龍伝』を追体験できるリアルとして提示できるかどうかは、作品をどう捉えるかというこちらの力次第ですね。でもきちんとやり切れれば、作品をこちらに引き寄せられることができるはずなので。

――リアルな追体験という部分で、中屋敷さんが『飛龍伝』にリアルを感じるのは、どういった部分なのでしょうか。
 革命を志した人たちがみんな死んじゃいました、じゃなくて、その後も生きていくというところですね。生き残ってしまった人もいるし、生き残った人たちが育んだ命もあって。日本人は、坂本龍馬や新撰組に散りゆく美学を感じますけど、その一方で、散れなかった人たちによる、それでもこの先を生きていくという、一見ダサい美学もあるんですよ。だって全共闘40万人と言いますけど、みんなが死んだわけじゃないですから。仲間を裏切った人もいただろうし、怖くなって逃げた人もいただろうし。この作品で語られる闘争の後日談、それに登場する人々はまさに今の日本に生きている。

――そこでもまた、1960年代と2010年代がつながっている。
 だから、昔はこんなことがありました、にはしたくない。つかさん自身もそう思ってこの戯曲を書いていると思うんですね。発表当時にも、この作品の中に現代への問いというものを込めていたと思う。だからそこに描かれるものには、今現在につながるものを感じざるをえない。僕がそう演出するのではなく、『飛龍伝』からは、そうした要素を感じ取らずにはいられないんですね。『飛龍伝』に登場する人々は模範的な生き方をしているわけではないし、かといって反面教師的な存在として描かれているわけでもない。彼らはただ、そこに生きているだけなんです。だから彼らの生き方になんらかの教訓があるというような、誤解をしないように観てもらいたいし、そういう作り方をしたい。彼らが正しかったのか、正しくなかったのかは誰にもわからないし決められない。ただそこに生きる人々の姿を、今の観客に提示することだけを考えて作りたいですね。


公演概要

GORCH BROTHERS PRESENTS
『飛龍伝』

<公演日程・会場>
2013/1/23(水)〜1/27(日) 本多劇場 (東京都)

<キャスト&スタッフ>
作:つかこうへい
演出:中屋敷法仁
出演:
玉置玲央 黒木華
稲葉友 小川慧 小早川俊輔 藤本強 大石憲 大村わたる 加治将樹
重岡漠 永島敬三 橋本淳 大塚宣幸 相馬一貴 板橋駿谷 多田直人
間宮祥太朗


2012-12-19 20:00 この記事だけ表示